何謂繁田式教學法

學習理論+實際應用(累積經驗)=日本人的日文能力

在學會理論之後加以實踐,然後藉著實踐累積經驗後,形成穩固的實力,將這種極為科學的方法利用在日語學習上的,正是繁田式教學法。
為了能夠在各種不同狀況下應用,理論必須極度抽象又必須兼具本質,若不夠抽象則會侷限實踐的範圍,若無法掌握本質則會充滿了例外。

在繁田式教學法所授予的理論中包含了如:發音理論、音調理論、文法理論及語法相關理論等,這些要素可以讓台灣的學生的日文能力更加接近日文母語者。

另外,在說明理論時,正確的文法用語定義是不可或缺的、而且必須要實踐,否則無法有效率地累積經驗。繁田式教學法則涵蓋了上述內容。

繁田式教学法とは

理論学習+実践(経験蓄積)=日本人の日本語力

理論を学んだ上で実践し、実践による経験の蓄積から確固たる能力を形成する、この極めて科学的なアプローチを日本語学習において行おうとするのが繁田式教学法である。

多種多様な実践に堪えるためには、理論は極めて抽象化された本質的なものでなくてはならない。抽象化が不十分であれば、実践用途が限定されてしまうし、本質を捉えていなければ、例外ばかりになってしまう。

繁田式教学法における理論には、例えば、発音理論・イントネーション理論・文法理論や語法に関する理論など、台湾人を日本語ネイティブに近づけるためのあらゆるものが含まれる。また、理論を語る際には、正確な用語の定義が不可欠であり、また、実践法について言及しなければ、効率的に経験の蓄積を行うことができない。よって、繁田式教学法ではこれらを包括的に扱う。

省去摸索的時間

繁田式教學法

單字及句子是學習者可以自發性地去接觸的部份。單字可以查字典,句子可以透過各種媒介來接觸。然而,存在於單字與句子間、或是在日文輸入及連接中文翻譯輸出間的條理及語感,通常需要花費大量的時間,在數百次或數千次的重複中進行錯誤調整,才能從摸索中自己體會出來的。

如果能夠先以理論來理解這些,然後再接觸實際的語言現象,一邊進行驗證一邊累積經驗,那麼所花費的時間就可以大幅地縮短。

試行錯誤の時間を省く

繁田式教學法

学習者が自発的に接触することができるものは単語と文である。単語は辞書で調べることができるし、文にも様々な媒体を通して接することができる。だが、単語と文の間に存在する、或いは、日文入力と中文対訳出力をつなぐ条理やニュアンスは、本来ならば、膨大な時間をかけ、何百回、幾千回もの繰り返しの中から、試行錯誤しながら自身で感じ取っていくものである。これらを理論として先に理解した上で、実際の言語現象に当たり、確認しながら経験を蓄積させることができれば、費やす時間を大幅に短縮できる。

即使在日本生活十年以上卻還是無法學會的用法

日文中有許多中文裡頭沒有的語感,或是無法以中文直接翻譯的日文。這也是理所當然的,因為日文跟中文本來就是兩種不同的語言。就算在日本生活十年以上,還是無法正確使用某些日文用法的事情也可能發生。這是因為那些日文用法所表達的不是客觀的事實,而是與說話者的心理狀態有關的主觀論述。

可以自然地學會這些用法的人,往往都是對語言具備相當高的領悟力的人,但遺憾的是,並不是所有的人都能如此。然而,如果以繁田式教學法學習,先以理論的形式學會,再加以靈活運用累積經驗的話,所有人都可以在更早的階段抓住竅門。

10年日本で生活しても習得できない表現

中国語にはないニュアンス、中国語では訳せない表現も日本語には少なくない。日本語と中国語は異なる言語なのだから、それは当たり前のことである。日本で10年以上生活していても、ある表現が正しく使えないという事が起こり得る。これは、その表現の表わす内容が客観的事実ではなく、話者の心理に依存する主観的なものだからにほかならない。このような表現を自然に習得できる人というのは言語現象に関する感受性が相当高い人であり、残念ながら、全ての人がそうだというわけではない。だが、繁田式で先に理論として学んだ上で、実践的に経験を積んでいけば、全ての人が比較的早い段階で習得が可能である。

隨時可以重拾書本

繁田式教學法的附加價值就是即便中斷了,也不太會有大影響。很多學生會因為不同的個人因素而暫時無法上課。這種情況下,繁田式教學法可以讓同學就算不得已必須中斷學習,之後也可以隨時重新開始。其理由是在於理論擁有抽象性,會出現在所有的日語表達中,因此,只要一旦學會且理解之後,剩下的就看你是要看喜歡的日劇或是漫畫都無所謂,只要持續接觸日文,就會不斷累積。等到自己的事情解決,繼續上課就好了。

相反的,如果是死背方式學習,一旦忘記就什麼都不留下,完全歸零。外國人在機場可能會碰到的情境或是買東西時所需要的句型等,在漫畫或日劇中幾乎不會接觸到,那麼,不管多麼辛苦背誦的內容也會漸漸淡忘。也就是說,強背死記的傳統學習法若中斷就有可能導致從零開始,當然學習的意願也會大大降低,因此中斷其實就等於是放棄學習日文的危機。在台灣每五個人就有一人擁有日文學習的經驗,但只有半桶水實力的人很多,其中原因之一就在於此。

いつでも再開できる

繁田式の副次的なメリットとして中断しても影響が少ないという点が挙げられる。さまざまな事情で一時的に学習が続けられなくなる生徒は少なくない。そんな場合、繁田式なら、やむを得ず中断したとしてもいつでも再開できる。理論はその抽象性ゆえに、あらゆる日本語表現に現れる。だから、一旦学んで理解したら、あとは好きなドラマを見てもいいし、マンガを読んでもいい。日本語に接しさえすれば、その蓄積は行われる。そうして事情が変わるのを待てばいい。一方、単に暗記しただけのものは、中断して忘れてしまえばゼロになる。空港で外国人が出会う場面や買い物の時に使用される典型的な句型など、ドラマや漫画で接するチャンスはほぼない。そうなれば忘れるだけだ。つまり、中断はやり直しになりかねないのだ。当然、意欲は蝕まれる。中断はそのまま日本語学習放棄の危機なのだ。台湾人の五人に一人が日本語学習経験を持っているにもかかわらず、中途半端な実力しか持たない人が多い要因の一つだ。

繁田式教學法的開發過程

開發繁田式教學法時,繁田從報章雜誌、工具書、小說、漫畫、網頁、部落格等…各種媒體上所刊登的文獻,以及電視節目、電影的對話中徹底擷取單字及句子間所存在的法則及語感的差異,同時以字典中可以查得到的知識做為基本知識,搜集句子的意思與字典中記載的意思有所差異的案例。繁田將花費了數年的時間所收集到的上萬個案例,根據現代文文法及古語文法之體系加以整理,再追加對日本人來說是理所當然所以在日本國文法中沒提及、亦或是被省略掉的部分。

最後再將這些內容,從易到難、從基礎到應用來設計課程,並為了讓同學能夠透過日語檢定考測試學習狀況,按照日檢各級數內容,在課程中配置適當的學習內容。

繁田式教学法の開発過程

繁田式教学法の開発に当たっては、新聞・雑誌・実用書・小説・漫画・HP・ブログなど様々なメディアに掲載される文献、テレビ番組・映画の会話から、単語と文の間に存在する条理・ニュアンスを徹底的にサンプリングした。その際、辞書で調べられる意味だけに予備知識を限定し、それと文の意味との差異があるケースを収集した。数年の歳月をかけて優に万を超えて収集したサンプルを、まず現代国文法及び古語文法の体系に基づいて整理し、日本人にとって自明であるとして国文法で扱わない、或いは、省略されているものを付加した。その上で、易から難へ、基礎から応用へとカリキュラムを構成していったのだが、その際に能力検定で達成度が測れるよう検定試験の級数に即して学習内容を配置した。

現有教學法的缺點

直接教學法

真正的直接教學法,其實是讓教學者和學習者處於同一情境,依著各種狀況,讓學習者藉由親身的聽、觀察來實際接觸此語言,自然而然理解該語言之教學法。例如,早晨日本人彼此見面時會說「おはようございます」,白天見面時說「こんにちは」,傍晚後說「こんばんは」經由反覆上述情境,讓學生自然理解早中晚的問候語,這就是直接教學法。不需要特別經過說明或教學,反而是讓學生觀察日本人自然的行動及反應。

不過此教學法須仰賴學習者對該語言有一定執著心或需要度,並且並非所有學習者都能達到一定的成效,重點在於學習者觀察日本人之間的對話後所累積的語言現象之量與質。學習此類教學法的學習者必需和教學者一同廣泛且反覆性的接觸日本人可能會接觸到的、全面性的語言現象,因此,唯一且絕對的理想教學型態便是兩者形影不離、共同起居。
由於觀察是其教學法的目的,因此,教學者至少必須在學習者面前和另一位日本人對話。此外,日文是非常重視社會性的語言,就算是相同的意思也會因講話者的立場之差異而有所不同。因此,教學者必須以各種不同立場、不同身分和其他日本人對話,以便學生觀察學習。

不過在此狀況下能夠學到的內容僅僅是「聽、說」等會話能力,關於「書寫、閱讀」則需要另外學習,此時就需要學習像日本國內的初、中、高等教育之國文課的內容,其實若沒有經此過程,就無法學會100%的文法。

另外還有下列的問題:如透過此學習法習得語言至少需要10年以上的時間,以及從起先的幾個月甚至學習的第一年幾乎無法理解任何學習內容時,學習者是否能維持其熱忱、熬過這段學習過程。此外,不論是教學者或學習者都無法輕易取得此類教學環境,且若要採取此教學法,基本上是一對一教學,因此,無法以授課形式來進行教學。

疑似直接教學法

只要是在教室中以授課的方式教學,就不可能是真正的直接教學法。讓學習者看著時鐘及太陽之類的圖片,練習各個時間點的問候語,跟先用英文或中文等說明現在是早上或現在是中午,讓學習者練習日文發音的教學方式,本質上並無異。不能說「因為沒有用英文(或中文)來教學,就稱之為直接教學法」。如像肢體語言,我們可以說動作是一種「語言」,圖片卡也是一種「媒介語言」。因此,展示卡片或動作並讓學生講出日文的教學方式只是疑似直接教學法,而且只是種束缚著教學者、不自由的教學法罷了。
確實在日本國內的語言學校等,班級中會有各國不同國籍的學習者,為了不犯使用以第三國語言作為媒介語之錯,只好採用此教學法,但此方法作為日文教學法而言有著顯著的缺陷。

首先,能夠教學的內容僅限於初學程度,並且此教學法無法擺脫為了說明日文文法而使用日文加以說明的矛盾,因此頂多僅能讓學習者背誦固定了意思和文法的句型,因此,就必然成為句型教學法,只能教導大概的意思,無法傳授細微的語感。另外,此教學法無法和母語間進行比較與對比,也無法修正來自於母語的語感等之誤解。

由上述可知,在同一母語之班級中,採用此疑似直接教學法是非常沒有效率且不合理的方式。不過,間接教學法當中,教學者(或課程設計者)是否有意識到媒介語(學習者母語)和日文之間的差異,也會導致學習成效出現極大的落差。因此,理解學習者的母語之日文母語者,以學習者母語作為媒介語所進行的間接教學法,可謂是最理想的教學法。

句型教學法

日文中有許多說法是透過個人的主觀情感來表達的,並且在文法特色上,儘管使用相同的單字或意思相同的句子,也會因為順序的不同及因前後關係所產生的省略等,而有非常多樣的表達法。此外,就算基本詞彙相同,只要搭配不同的附屬語(助詞和助動詞),就會產生細微的語感差異。
相對的,英語是客觀地呈現事實的語言,重點是放在如何根據不同狀況及語感來選擇所使用的單字,只要單字選出來了,句子也就理所當然地成型了,因此學習英語時使用「情境假設」是很有效的。

有人認為日文也可以用同樣的方法學習,因此開發出「句型教學法」。儘管有99%的學習者都嘗試過此方法,但很遺憾這並不能幫助同學確實的獲得日文母語者的日文能力。
日文中並不存在只要使用固定的單字,就會變成固定的句子的狀況。因此,如果真心想教會學習者能夠和日本人溝通,就必須逼迫學習者背誦所有可能之情境及如繁星般數量眾多的句型。但實際上來說,根本無法製作網羅所有情境之教材,即使有可能做到,學習者也很難判斷眼前的狀況是屬於哪種情境,而無法選出正確的句型。

最根本的問題在於人腦並非電腦,根本無法為了一生中不知是否有機會用到的情境而持續性地保持如此龐大的知識。因此,才產生目前像這樣,讓學習者學習極少數在日常中有可能面臨的典型情境和句型的教學法。當然在許多狀況之下,溝通會產生落差,對話也無法成立,但學習者甚至不會發現此溝通上的落差,這正是此教學法受害者的典型案例。
然而,最大的受害者是發現了此落差的學習者,在耗費了不少時間和金錢後,才被迫發現這其實是一條不會抵達終點的路,走這條遠路實在是白費且徒勞無功。除了單字外幾乎沒有學到任何東西,反而還吸收了可說是學習障礙的知識,以文法的層面來說,甚至能說是比起跑點還退後了好幾步。

即使如此,現有的日文能力檢定,僅靠著句型教學法還是可以合格的,然而,其實學習者本人最清楚,自己不過是有了能夠假裝會日文的能力罷了,但大部分的人會因為已經通過日文檢定,而躊躇是否該為了學習正確的日文而從基礎課程開始學習。以N2合格者為例,能夠真正下定決心學習N3以前的內容者為數甚少。句型教學法造成的受害狀況超出想像的嚴重。

在繁田塾中,上過N1課程的學習者回頭重上N2課程,上過N2課程後重上N3課程等,此類回溯報名的例子不少。本班課程的安排以基礎到應用、由簡單到難的方式設計的,雖然說逆向學習是非常沒有效率的,但實際上大部分的人若不實際上過課,根本就無法發現自己究竟缺少了什麼。

中文譯文教學法

有不少日文教師僅是把日文翻譯成中文譯文,就認為是在教授日文,同樣的,只知道中文意思就滿足的學習者也不少。當然對已具有相當的日文能力,目標是成為翻譯者或口譯員的學習者來說,這樣的教法也許能作為參考,但對大多數的日文學習者而言,不得不說此類教法是不具成果且是最差勁的教學法,就算知道某句日文及其中譯,也不會讓人真正理解日文。

歸根究底,日文和中文原本就是不同的語言,日文和中文根本不可能一對一100%的完全對應。只要文法或語言之起源不同,單字就會產生細微的語感差異,加上文化及歷史背景的差異,人的思考方式及感覺會不同也是理所當然的。如果以簡單一句話「這句日文翻成中文就是這個意思」篤定地向同學授課,這是教師的怠慢、也是傲慢,此態度會在學習者心中深植一種日文和中文是可以一個蘿蔔一個坑般單純對應的錯覺。

學習者若不知道中文和日文間有或多或少的差異,將無法獲得正確的日文能力,所以,教師方面也必須不斷提醒學習者,譯文僅為結果,應該學習的是日文之本意。
語言學習中最為重要的是對語言現象的敏感度。此敏感度所指的是一種感性,能否感覺到用詞、語氣、音調等語言本身的差異、以及於說話前後發生的狀況、事物的變化、及包含對方在內的周遭人士的表情與反應等,這些非常細膩的差異。句型或單純對應的中文譯文將會封印此敏感度。

自釋文法

自譯文法之所以會出現,是在於跳過原本該學習的文法內容,而直接將日文轉換成中文,這樣將出現“先有中文翻譯而完全沒有文法背景的硬凹邏輯”;以及在“只要能在考試拿到分數就好”的狀況下,也有可能誕生此類自譯文法。

當然,如果是對日文學習者有所幫助的,就算稍微和傳統日文文法出現差異,作為學習者可使用的文法,當然是可以被接受的;但若只是為了矇騙學習者,是因考量教學之方便而“發明”出來的文法,就只是單純硬凹、穿鑿附會的文法罷了。例如常見的自譯文法有:

  • 「は」表示舊有資訊,「が」表示新的資訊。
  • •    「は」是強調は後面的部分,「が」是強調が前面的部分。
  • •    「たい」是用說明「我」的情況下,「たがる」則是說明第三者時。

等等不勝枚舉,但是坦白說,日文絕對沒有這樣的規則,若要舉反面證據來反論,都易如反掌,學習者就算學會這些,也無法真正的會使用日文。當學習者相信這些謬論而產生誤用時,這些以專家姿態來教學的教學者該如何負起責任呢?

既存教学法の欠点

直接法

真の意味での直接法とは、教授者が状況を学習者と共有しながら、個々の場合に応じた言語体験を見せ、聞かせることで学習者が自然に理解するようになるのを期待する方法をいう。朝、出会った時に「おはようございます」、日中ならば「こんにちは」、日が暮れた後には、「こんばんは」と言うことを何度も繰り返すことによって、朝昼晩の挨拶を自然に理解させるようなやり方を指す。特に説明しようとしたり教えようとしたりする必要はなく、ごく自然な日本人としての行動・反応を学習者に観察させた方がよい。

学習者のその言語に対する執着心というか必要度による部分が大きく、常に一定の成果が上げられるというわけでもない。ポイントは観察によって蓄積される言語現象の量と質であり、学習者は教授者とともに日本人ならば接するであろう全方面的な言語現象について、遍く且つ反復的に触れる必要がある。よって、唯一絶対の理想形態は彼らが寝食を共にすることである。

学習者に観察させることが目的なので、教授者は最低限もう一人の日本人との会話を学習者の前で行う必要がある。また、日本語は敬語など社会性を重視する言語なので、同じ意味の表現が立場の違いで変化する。よって、教授者は様々な立場で他の日本人と会話を行って見せなければならない。
ただ、この場合、習得できるのは、会話能力「聞く・話す」のみであるから、「書く・読む」は別に学習する必要がある。その場合、日本の初等・中等・高等教育課程における国語科のような学習法が必要になる。実はこれ無しには文法学習は完成しない。
少なくとも10年単位の時間がかかること、最初の数か月から1年のほとんど何もわからない状態を学習者がモチベーションを維持しながら、乗り切れるかということなどの問題もある。

教授者にとっても学習者にとってもこの環境は望んで作れるものではなく、また、基本一対一なので、授業形式では不可能である。

疑似直接法

教室で授業として教える以上、真の直接法はあり得ない。時計や太陽の絵を見せながら、それぞれの挨拶を連呼させるのは、英語や中国語で「朝だ」「昼だ」と伝えてから日本語を連呼させるのと本質的には変わらない。「英語(中国語)を使わないで教えているから、直接法だ」とは言えないのである。ボディランゲージと言われるように、動作も「言語」の一種であり、絵カードも媒介言語の一種なのだ。だから、カードや動作を見せて日本語を連呼するやり方は疑似直接法であり、単に教える側に“縛り”を与えている不自由な教授法に過ぎない。確かに日本の語学学校のような多国籍クラスにおいては、第三の言語を媒介語とする愚を犯さぬためにはこの方法を採用するしかない。だが、この方法は日本語教授法として明らかに欠陥がある。

まず、教えられる内容が初級レベルに限定される。日本語の文法を説明するのに、日本語を使用することの矛盾から逃れられないため、意味と文法を固定した句型を覚えさせるくらいしかできない。必然的に句型教授法になるのだが、大体の意味だけで、微妙なニュアンスを教えることはできない。

また、母語との比較対比ができないので、母語の語感等に起因する誤解を修正できない。そして、教授者が学習者母語の理解を怠りやすいということも挙げられる。

母語を同一にするクラスにおいて、この疑似直接法で授業を行うのは非効率的かつ非合理的である。ただ、間接法の場合、教授者(あるいは、カリキュラム設計者)が学習者の(母語)と日本語の違いを意識しているかどうかで成果に大きな差が出てくる。よって、学習者母語を理解した日本語ネイティブがその母語を媒介語とした間接法で教えるのが最も理想的である。

句型教授法

日本語は自身の主観というフィルターを通して表現することが多い。そして、文法の特色上、同じ単語を使っていても、また、文の意味がほぼ同じ意味であったとしても、語順の移動や前後関係による省略などで多様な表現が可能である。また、基本語彙が同一でも文法性語句(付属語)を変えれば、細かいニュアンスの違いが生じる。

一方、物事を事実として客観的に表現する言語である英語は、状況やニュアンスに応じてどの単語を選択するかに重点が置かれていて、単語が特定されれば、必然的に文の形が決まる。それで、英語学習にはいわゆるスキッド学習が有効なのだ。
日本語でも同様の学習法ができるはずだと考えて開発されたのが句型学習法なのだが、99%の学習者が経験するこの方法では、残念ながら、日本人の日本語力は手に入らない。

使用する単語が決まれば、必然的に決まる文というものは日本語にはない。ゆえに、本当に学習者を日本人とコミュニケーションできるようにさせようと思ったら、ありとあらゆる状況に基づいた、それこそ星の数ほどの句型を覚えさせなければならない。だが、実際には全ての状況を網羅したカリキュラムを作ることなど望むべくもないし、よしんば教える方にそれが出来たとしても、学習者が現在の状況が一体どの状況に相当するか適切に判断し、正しい句型を選び出すのは困難だろう。大体、コンピュータならぬ人間の脳には、そのような膨大な知識を、一生のうち使うかもわからない時に備えて継続的に保持し続けることなんてできるものではない。それで、極ごく一部の典型的な状況とその句型を設定して学習させるわけである。当然、多くの場合で、コミュニケーションにズレが生じ、会話が成立しないのだが、多くの学習者はズレが生じていることにすら気付かない。まさにこの教授法の被害者の典型である。

だが、最大の被害者は、このズレに、すなわち、句型教授法の欠陥に気付いた者である。少なからぬ時間と費用をかけて進んできた道が目的地に通じていないことを否応なしに知らされるからだ。この回り道は実に不毛である。語彙以外ほとんど学んでいないも同然で、尚且つ邪魔になる知識さえ持っている。実は文法的にはスタート地点から後退しているとさえ言える。それでも、現行の能力試験になら、句型教授法でも合格できる。実際には日本語ができるふりができるようになっただけだということは本人が一番わかっているはずだが、多くの場合、すでに合格していることを以って、正しく日本語力を身につけるための基礎課程を学ぶことを躊躇してしまう。N2合格者でN3以前の授業を受けるのを決心できるものは少ない。句型教授法の被害の根は実に深いのだ。

繁田塾では、N1の受講者がN2を、N2を受けた後、N3をと徐々に遡って報名するケースが少なくない。基礎から応用へ、易から難へとデザインされたカリキュラムを逆にたどるのは非常に非効率的だが、多くの人は実際に受講してみないと、何が足りないか自覚できないのだろう。

中文訳解説法

単に中国語訳を説明して日本語を教えた気になっている日本語教師は多い。同様に中国語訳を知れば満足だという学習者も多い。すでに日本語力がある人で、翻訳家や通訳を志しているのなら、参考にすることもできるだろうが、大多数の日本語学習者にとっては、成果の出ない、最低な教授法であると言わざるを得ない。ある日本語とその中国語の対訳を知ったところで日本語がわかるようにはならない。

そもそも日本語と中国語は異なる言語であるから、日本語と中国語が一対一で100%対応するなどということはほとんどありえない。文法や語源が異なれば、単語は微妙なニュアンスの違いを生むだろうし、文化的・歴史的背景が異なる以上、人の思考方式や感覚も違っているのは当然だ。ある日本語について、中国語ではこの意味だと、簡潔な一文で断じるのは教師の怠慢であり、傲慢である。この怠慢なり傲慢なりが学習者に日本語と中国語に一対一の対応があるような錯覚を植え付ける。
 学習者は多かれ少なかれ彼我には差異があると思っていなければ、正しく日本語力を身に付けることはできない。教師は、訳は結果に過ぎぬこと、学ぶべきは本意なりと学習者に絶えず示唆し続けなければならない。

言語学習でもっとも大事なことは言語現象に対する敏感さである。用語・口調・イントネーションなどの言葉そのものの違い、言葉の前後に発生する状況・物事の変化や相手を含めた周囲の表情・反応などの差を、ごく微細なものまで感じ取る感受性のことだ。句型や中国語訳というのはこの敏感さを封じ込めてしまう。

似非文法

本来学ぶべき文法をすっ飛ばし、日本語と中国語の文を直接つなげようとすると、“最初に中国語訳ありき”の全く文法的背景を持たないこじつけのロジックが生まれる。試験で正解を得られればいいという考えの下に誕生する場合もある。"

 多少伝統的な文法概念と異なっていてもそれが日本語学習者にとって有用ならば、日本語学習者用の文法として認めるに吝かではないが、学習者を言いくるめるためだけに、教える側の都合で“発明”されたものは単なるこじつけである。

  • 「は」は旧情報を表し、「が」は新情報を表す。
  • 「は」は後ろを強調し、「が」は前を強調する。
  • 「たい」は「私」用、「たがる」は第三者用。

などなど、枚挙に暇がないほどだが、はっきり言ってこのようなルールはない。反証をあげて論破するのは児戯に等しい。こんなものを覚えたところで学習者が日本語を使えるようにはならない。学習者のこれらを信じた故の誤用に対して、さも専門家面して教えた輩はどう責任を取るのだろうか? この場で一言警告を発しておこうと思う。

心ある日本語教師の諸君、このような似非文法で君たちを信じている学習者たちを裏切らないでくれたまえ。ここに予言しておく。私の下で学んだ数万人規模の台湾人がこれらに対する反証を徐々に広めてくれている。これらを以って学習者を言いくるめることは、いずれ困難になるだろう。

學習法之缺點

背多少句型都沒用

有許多學習者及教師將句型誤會為文法,但其實句型並非文法。文法必須擁有超越具體事項的抽象性。句型不過是在某種特定的狀況下,經常被使用之典型句子的一種具體形式,這是在固定文法和意思時所得出之東西。所以,即使背誦句型和其意思,除非能夠遇到和原先預設的情境同樣的情境,否則無法使用。

日文學習者本該習得之內容應為串連單字和句子的邏輯。學習此邏輯後,便能依照該句型(句子)之結構和正確的意思為基礎,理解在某種情境之下,為什麼能夠使用該句型(句子)。

僅學習翻譯日文是無用的

將日文的句子翻譯成中文時,無法避免句子轉換成中文語感,導致原文的語感也隨之消逝的狀況。學習日文時的重點,就是要學習在何種情境下該使用何種文法才能表達怎麼樣的語感,而將其語感以何等中文翻譯則僅是結果。在幾乎所有的狀況中,若想把日文的語感正確的用中文表達,須在一句中耗費許多話語,在對話中當然會不自然,作為文章也不夠優美,於是簡潔的中文譯文便雀屏中選。但是,「~つもり」不等於「打算~」,「~ようだ」也並非「相似~」,這其中存在著日文細膩的語感,必須要理解這一點之後,才能認知到只不過也可以用這樣的中文來表達罷了。

因此,若是正確的學習日文,就會經常出現理解該語感之後,找不到該用甚麼中文來表達。
不論是否是學習日文,只要是學習語言的學習者,都必須將其語感以該語言來理解。

做再多考古題也還是不會日語

因為使用句型的教學法,從初級到中級階段必然會瓦解,所以中級以上的日語,許多人使用不是以句子,而是以詞句(將幾個單字組合而成者)在意思上進行分類、整理後,將其稱之為句型教材。這些為了正確回答考古題所發明出來的教材。考試的正確答案必須只有一個,所以命題者不會採用兩種表達方式皆可的題目。

因此,這個教材是在忽略微妙的語感差異的概念下開發的,是只將大致的意思整理之後的教材。另外,在實際會使用的日語中有不少表達方式是原本就難以設定為考試題目的表達法,所以此類表達法排除為出題的對象。確實為了準備考試而做考古題,說不定對考試有用,但依舊無法讓學習者獲得與日語母語者相同的日語能力。

教学法の欠点

いくら句型を覚えても無駄

句型を文法だと勘違いしている学習者・教師が多いようだが、句型は文法ではない。文法とは具体を超越する抽象性をもっていなければならない。句型とはある特定の状況下で典型的に用いられる文の具体例の一形式に過ぎず、これは文法と意味を固定することによって得られるものである。だから、単に句型とその意味を覚えたところで、その設定された状況と同じ状況に出会わない限り使えない。

本来日本語学習者が学習すべきものは単語と文をつなぐロジックである。これを学ぶことで、ある状況下でどうしてその句型(文)が使用できるかを、その構成と正確な意味を基に理解できるようになる。

いくら日本文の訳し方を学習しても無駄

日本語の文を中国語に翻訳すれば、中国語のニュアンスになってしまうのは避けられない。日本語を学習する場合、どの状況でどの文法を使用すれば、どのようなニュアンスが表せるかということが重要で、そのニュアンスをどのような中国語で訳すかは結果に過ぎない。殆どの場合、そのニュアンスを正確に中国語で表そうとすれば、一文に多くの言葉を費やさなければならなくなる。会話の中ではそれは不自然であり、文章にしても美しくない。それで、簡潔な中国語訳が使用されるのだ。だが、「~つもり」は「打算~」ではないし、「~ようだ」は「相似~」ではない。そこには微妙な日本語のニュアンスがあり、それを理解した上で、中国語では通常そのように言うこともできるというだけのことだ。

だから、正しく日本語を学習している場合、そのニュアンスは分かるのだが、中国語でどう表現すればいいか分からない、ということが頻繁に起こる。
日本語かどうかを問わず、ある言語の学習者はそのニュアンスをその言語のまま理解するべきなのである。

いくら文法問題を解いても無駄

句型教授法は初級から中級へ進む段階で必然的に破綻するので、中級以上となると、文ではなく、語句(いくつかの単語を組み合わせたもの)を意味的に分類・整理したものを句型と称した教材を使用する人が多い。これらは文法問題に正解するために考え出された教材である。

テストは、正解は1つでなければならないので、2つの表現が両方とも使用できるような場合は、それを設問にすることはない。よって、微妙な意味の差は無視できるというコンセプトのもと、大体の意味で整理した教材が開発された。また、もともと設問にしにくい表現も実際の日本語の中には少なくないわけで、これらは基本的に対象外になっている。確かに多くの文法問題を解くことはテスト対策としては役に立つかもしれないが、これで日本語力は付かない。

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